へんてこ論(「橋下徹の研究」2012年11月14日~)

ブログ『ART TOUCH』から独立 暫くの間、《橋下徹VS朝日の最終戦争》の記事を連載

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『1Q84』におけるフェミニズムとメロドラマの研究

少々ネタバレあり。

『1Q84』読了
『BOOK2』の第13章以降、読むのをやめようと思ったのは2カ所、ひとつはカルト集団のリーダーが教理を述べる13章、もうひとつは、これでノーベル賞は遠のいたと思われる14章だ。

でも、それ以外は、『羊をめぐる冒険』を読んだときのように一気に読んでしまったのだから、それなりに面白かったわけだ。もちろん、これまで村上春樹をちゃんと読んだことがないということもある。

ネタバレなしで村上春樹を論じるのは難しい。登場人物の性行動についてちょと触れておく。『BOOK1』の前半を読んだところで、「この小説が成功するとしたら、それはAnti-Feminism小説としてだ」といったけれど、読了したあともこの考えを撤回する必要はないようだ。

女主人公は殺し屋で、大藪春彦流に性処理をする。妊娠と性病をおそれ必ずコンドームを使う。得意の護身術は睾丸蹴りである。
男主人公は予備校の講師で、人妻のガールフレンドと定期的にセックスをしている。人妻は性行為の主導権を握り、嫉妬深い。二回のセックスの中休みに彼女は彼の睾丸をやさしくなでる。

男主人公はいろいろな経緯があって、まだ生理もなく陰毛も生えていない17歳の少女と性交をする。女主人公はマンハントのチームを組んでいた女友達を失い、殺し屋としての最後の仕事に出かける。

そして、二人とも本当の愛を求めている。

第13章はこの未完の物語の一つのクライマックスである。カルト教団のリーダーは、『地獄の黙示録』のカーツ大佐であり、殺し屋はウィラード大尉だ。大佐は善悪二元論のような「パラレルワールド」について語る。

そして、リーダーは殺し屋に言う。

「この1Q84年において今のところ、きみたち二人を同時に助けることはできそうにない。選択肢は二つ。ひとつはおそらくは君が死に、天吾くんが生き残る。もうひとつはおそらく彼が死に、君が生き残る。そのどちらかだ。」

自分が生き延びて愛する者が死ぬか、自分が死んで愛するものを救うか、どちらか選択するしかないと、女主人公にいうのだが、そこのところのジレンマが、まだ未完だからか、わたしには良く理解できなかった。

しかし、そんなことはBOOK3、4が出てから考えればよいことで、ここで重要なことは、スラップスティックで始まった物語がハードボイルドになり、そしてこの13章のエピソードで、物語はハードボイルドからメロドラマになったということだ。

しかし、いったいメロドラマでフェミニズムの原理主義を克服することが出来るだろうか。
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2009.06.03[Wed] Post 01:24  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『1Q84』 缶ビールからワインへ

『1Q84』を「BOOK2」の第12章まで読んだ。

男主人公の天吾が缶ビールの二本目が飲めなくて、流しに捨てる場面があった。少し驚いた。

村上の作品で最後まで読んだのは『羊をめぐる冒険』だけだが、憶えているのは主人公が缶ビールを、それもたいていは二缶飲むところだ。一缶ではなく二缶をゆっくり飲んだ至福感は村上の「デタッチメント」な世界にふさわしい。

ところが『1Q84』の主人公は2本目の缶ビールを半分残して、残りを流しに捨てる。

『1Q84』では酔うためには缶ビールのかわりにウィスキーを飲む。そして、カクテルや白ワインも小道具として使われるが、もちろんひとりで飲むためではない。缶ビールはひとりで飲むものだ。

村上春樹は缶ビール二本の世界から出て行こうとしているのだろうか。それともただ年をとっただけなのだろうか。
2009.06.01[Mon] Post 14:10  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『1Q84』村上春樹を15章まで読んだ。

昨日(30日)の昼過ぎ佐川急便で『1Q84』が届いた。第15章まで読んだ。セックスと暴力と革命の村上龍的世界のソフトバージョンである。

とにかく、今回は途中でやめないように慎重に読み始めた。村上春樹を読むなら缶ビール二つだとわざわざ町まで降りて買ってきた。

ともかく批評はあとにして、これまでに読むのをやめたくなった箇所を書いておく。

*「人妻のガールフレンド」という言葉を読んだとき。他にも「放尿の音を聞いた」「ブラウスの一番上のボタンをはずす」「用心深さが青豆の身上だった」「そこで十円玉が切れた」など雑な表現が多すぎる(p47)
*女主人公の青豆がシングルバーでマンハントする箇所が、飯島愛がみたいでおかしい。女の殺し屋が男をセックス処理に使うなら、やっぱり大藪春彦だ。もっとも英語に翻訳すると、カフカのようにスラップスティックな味が出てくるのかもしれない。(p106)
*青豆がいっしょに4Pをした警察官のあゆみと高級レストランで食事する場面が貧乏くさくてやりきれない。シェフが知り合いだからといって安くしてもらって喜んでいるのもどうかと思うが、そのシェフが味も分からない客がテイスティングでワインを交換させると笑いものにするのは、それだけでまっとうなレストランとは思えない。もちろん高級レストランでの振る舞い方なんて知りませんがね。
一カ所だけその第15章から引用する。「あゆみは腕きき弁護士が重要な契約書を読むときのような鋭い目つきで、メニューに書かれている内容を隅々まで二回ずつよんだ。」これがかの有名な村上春樹の翻訳調なのかな。英作文の問題みたいだ。

これまでのところ性描写には気味の悪さがないかわり、『ノルウェーの森』のような女性向けポルノの楽しみはない(たぶん)。フェミニストに気兼ねしているようなところがあるけれど、村上がこれまでとまったく違った性を描こうとしているのかもしれない。

村上がエルサレム賞のスピーチで述べた「壁と卵」がこの『1Q84』のテーマであることはまちがいない。とすれば、青豆のセックスは壁側のセックスであり、システム化された性ということになる。

と、ここまで書いて、突然すべてを理解した。システム化された性というのはフェミニストの性なのだ。青豆の性は、フェミニストの性を殺し屋の性処理として戯画化してあるのだ。そう考えるとすべて辻褄があう。レストランでの滑稽な振る舞いさえも。そして、もちろん、小説冒頭の女主人公が渋滞した首都高の避難場所から階段を下りるシーンも、パロディと考えれば、ちょっとカフカの匂いがする。

まだ四分の一しか読んでいないけれども、もしこの小説が少しでも成功するとしたら、それは反フェミニストの小説としてだ。そして、それは必然的に失敗するということだ。エルサレム賞のスピーチ以上にサヨクたちの村上バッシングがはじまるだろう。


こうなったら意地でも『1Q84』を最後まで読むことにする。
2009.05.31[Sun] Post 15:18  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『1Q84』村上春樹


テレビをつけたら、「報道ステーション」で村上春樹の『1Q84』が都内の大型書店で先行発売されたというニュースをやっていた。古舘の隣に座っているアシスタントが、村上春樹のことを、エルサレム賞の授賞式で、ガザの人々を壊れやすい卵にたとえて、イスラエルを非難した村上さんといっていた。そして、授賞式で「壁と卵の比喩」を話している村上氏の映像を流した。

なんども言うが、これは明らかな嘘である。たしかに、イスラエルの圧倒的な武器によるガザ攻撃を非難してはいる。しかし、あのスピーチを全文読めば分かるように、かれはイスラエルを非難するためにイスラエルにいったのではない。「エルサレム賞を拒否しないのはイスラエルの側につくことだ」というパレスチナ側の脅迫を拒否し、文学の側に立つと言うためにエルサレムにいったのだ。

村上氏が一方的にイスラエルを非難したような「捏造記事」を書いたのは朝日新聞だった。訂正することもなく、なにがなんでも「朝日」は嘘をいいつづけるつもりらしい。

『1Q84』をアマゾンで予約注文した。『海辺のカフカ』に挑戦したのだが、途中で挫折していた。それなら4000円も払えば、いくらなんでも、読むだろうと予約した。それに、話題になっているうちに読んで、感想文を書きたいと思っている。 配送予定日は 2009/5/31 - 2009/6/2だ。

ひさしぶりに見た古舘伊知郎は、芸にいっそうの磨きがかかっていた。


『村上春樹のエルサレム賞スピーチ』へ

「『1Q84』におけるフェミニズムとメロドラマについての研究」へ
2009.05.27[Wed] Post 23:51  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

斎藤美奈子と永江朗

山形浩生が永江朗を揶揄したことで斎藤美奈子のことを思い出した。

永江斎藤二人の合評「甘い本 辛い本」がネットで読めるけれど、まあ、ひとまずポイントを押さえておくといった対談で、結局はどこか物足りない批評になっている。これは、なんの根拠もないことだが、たとえば、「千夜千冊」を書いた松岡正剛のような編集者出身の批評によく見られる特徴ではないだろうか。編集会議の雑談のようなもので、なるほどと思わせながら、よく考えると中身が何もない批評だ。二人とも編集者出身だし、そういえば椹木野衣も『美術手帖』の編集者だった。

『妊娠小説』は編集者経験を生かした斎藤美奈子の良いところが出た評論だが、その同じ斎藤氏が朝日新聞に書くとなると、永江氏と同様に逆上してか、あらぬ事を口走る。わたしが言っているのは村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチについての斎藤のコメントのことだ。わたしは『村上春樹 エルサレム賞授賞式スピーチ(2)』を書いたあと、わざわざ図書館に行って朝日新聞の記事を探して読んだ。斎藤は以下のように村上の「壁と卵」の比喩を批判する。

 先日エルサレム賞を受賞した村上春樹氏は、スピーチで「壁と卵」の比喩を用いた。 「もし硬い、高い壁と、そこに投げつけられて壊れる卵があるなら、たとえ壁がどんなに正しく、卵がどんなに間違っていても、私は卵の側に立つ」  この賞を受けること自体の是非は問わない(それでもイスラエルのガザ攻撃に反対ならば受賞を拒絶すべきだったと私は思っているけどね)。その比喩で行く なら、卵を握りつぶして投げるくらいのパフォーマンスを見せてくれてもよかったのに、とも思うけれども、小説家にそれを望むのは筋違いな話かもしれない。  ただ、このスピーチを聞いてふと思ったのは、こういう場合に「自分は壁の側に立つ」と表明する人がいるだろうかということだった。作家はもちろん、政治家だって「卵の側に立つ」というのではないか。卵の比喩はかっこいい。総論というのはなべてかっこいいのである。


たしかに「壁と卵」の比喩は上出来とはいえない。しかし、村上は総論を述べるためにエルサレムに来たわけではない。そうではなく、パレスチナの脅迫を断固として拒絶し、文学を擁護するために来たのだ。イスラム原理主義者が村上の著作をボイコットするということが何を意味するか斎藤美奈子は分かっているのか。

それから、斎藤美奈子はフェミニストらしいが、ハマスが女性や子供をどれだけ抑圧し利用しているか知らないはずはない。

スレッド:政治・経済・社会問題なんでも / ジャンル:政治・経済

2009.05.10[Sun] Post 15:47  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

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