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へんてこ論(「橋下徹の研究」2012年11月14日~)

ブログ『ART TOUCH』から独立 暫くの間、《橋下徹VS朝日の最終戦争》の記事を連載

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『ツイッターノミクス』タラ・ハント著


インターネットに関する本はたくさんあるけれど、面白いものは少ない。それでも、WEB2.0やGoogleやクラウドやロングテールの話は面白かった。この本も、図書館の新入荷のコーナーで見つけ、ツイッターというタイトルに惹かれて借りてきた。

読んでがっかりした。ツイッターのとらえ方がWEB2.0の視点を一歩も出ていない。ネットを使った人脈形成の自慢話に終始して、勝間和代を思い出した。アマゾンでは高い評価を受けているけれど、これから起業しようという人には励みになるのかもしれない。隠居した老人には退屈な話だ。

ツイッターは発表された時点ですでに評判が高かったが、いったいどこが革命的なのかわからない。ブロガーが、自分のツイッターのやりとりを載せているのを読んだけれどやっぱり分からない。

東浩紀はツイッターは集合知を生むといった。しかし、それ以上にファッシズムを生む危険があるのではないか。オバマはツイッターで支持者を集めたというけれど、これをネット民主主義の勝利と手放しで喜ぶことはできない。ファッシズムは民主主義から生まれたのだ。

わたしは今のところツイッターをやるつもりはないけれど、Dガレージの株は持っている。
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2010.04.26[Mon] Post 19:01  CO:0  TB:0    Top▲

『鳩山由紀夫の政治を科学する』高橋洋一・竹内薫



鳩山首相はORの研究でスタンフォード大学で博士号をとったということで、それなら鳩山政権のオペレーションズリサーチ(OR)をしてみようというわけだ。高橋洋一が先生で竹内薫が生徒である。

鳩山政権の目的関数は、「支持層の幸福の最大化」であり、その時の制約条件(財源)を考慮して最適解をもとめるということになる。

民主党の支持層は支持母体+浮動票

支持母体は日教組+自治労+パチンコ業界

支持母体を幸福にする具体的な政策は
1:日教組に対しては「文科省にお金をあげない」こと、「子ども手当」を文科省を通さずに直接家庭に渡すなど。
2:自治労に対しては「地方分権しない」こと、「交付税」の割増をするなど。
3:パチンコ業界に対しては「外国人地方参政権を付与する」こと、これは状況をみて先送りする可能性もある。
4:浮動層に対しては「自民党とは違う政治をする」こと、すなわち「天下りの廃止」と「政治主導の演出」、さらには予算との兼ね合いをみながら順次「社会保障制度」充実していく。

以上のために過去官僚や財務省経産省を味方につけるということ。

さらに、小沢陰関数があって、その目的関数は「独裁体制の維持」であり、その合理的な戦略は「参議院を中心に基盤を固めること」だ。

民主党のマニフェストは一貫性がないとか、人事は小沢の独断だといわれているけれど、高橋氏の分析によれは、鳩山連立政権の政策と人事は小沢独裁体制維持という目的関数の最適解であることが見事に示されている。

以上のことは、これまでも断片的に指摘されてきたことである。しかし、かって竹中平蔵のブレインとして、人事と政策をめぐる権力闘争をまじかに見てきた高橋洋一ならではの分析は一読に値するだろう。
2009.12.21[Mon] Post 00:38  CO:1  TB:0    Top▲

NHKの天安門事件の報道(2)

前回の記事でNHKが9時のニュースで天安門事件二十周年についてかなり批判的に報道したことを書いた。

ところが、同日(6/4日)、NHKの「クローズアップ現代」が『天安門事件20年 中国・民主化の行方』と題した番組を放送していたことをあとで知った。解説は加藤青延、キャスターは国谷裕子で『天安門事件 空白の3時間に迫る』(クローズアップ現代93年6月3日放送)のときと同じである。

この番組について報じているJ-CASTのニュース「天安門事件『メディアから消滅』 中国の民主化は進むか」によれば、事件当時、共産党青年団機関紙の記者だったジャーナリストの李大同氏は、「当局は天安門事件をすべてのメディアから消滅させ、中国の歴史上なかったことにしようとしている」と言ったという。それに対して、加藤氏の解説は

この点についてスタジオの加藤青延(NHK解説委員)は「改革開放30年の中であの事件が最大の汚点だったことを中国共産党も自覚している。ただ、当時の指導者の判断が正しかったという立場を崩せない。共産党支配の正当性を否定しかねないからだ。しかし、武力制圧の正当性を声高に主張するのも共産党のイメージを悪くするので避けたい。事件を封印したい、人々の記憶から消し去りたいのが本音」と説明する。


天安門事件をすべてのメディアから消滅させるために中国当局に協力したのはあなたたちではないか。恥なしを恥とする。
2009.06.06[Sat] Post 15:30  CO:0  TB:0    Top▲

『科学の落とし穴』池内了(晶文社)


これはトンデモ本である。もちろん図書館で借りてきた。

読んだことはないが、池内了の名前だけは知っていた。新聞雑誌でよく名前をみるからだ。宇宙物理学が専攻だというから、ひょとしてホールトン・アープのことが書いてあるかと思って、読んでみたが、とんでもない。正真正銘のトンデモ本だった。

何しろ最初のトピックスが『技術革新四十分の一の法則』という面白くも可笑しくもない思いつきが書いてある。これはなんとか我慢して通読した。あとはパラパラめくってみた。「市民と科学」とか「公正な科学」とかあるからカルスタとかPCのたぐいなのだろう。

『IPCCの統合報告書の警告』では「自分の生き方を見直すことが重要である」と地球温暖化の「(疑似)科学の落とし穴」に、そのまんま、はまちゃってる。また『監視社会のゆくえ』では、監視カメラを監視するカメラが必要になるような監視社会になっては困るから、その第一歩である住基ネットに反対だと、できの悪いSFのようなことをいっている。

「監視社会」というのは、たぶんフーコーのパノプティコンから出てきた話だろうが、あれは監獄の話であって、しかも、一望のもとに監視することよって、服役者に制限された自由を与え、社会復帰のための訓練もできるようにしようとするものだ。

それに、監視社会というのは、住基ネットで生まれるものではない。われわれはすでに銀行やビデオレンタルや図書館では、電子情報で管理されているのだ。ネット社会よりも社会主義の密告制度のほうがずっと恐ろしい監視社会なのだ。著者はいったいキューバで五人組のような監視システムや検閲があることをしらないのだろうか。

あとがきを見たら、この本が著者の三冊目の「科学時評集」だと書いてあった。ご冗談でしょう、池内さん。
2009.05.09[Sat] Post 14:59  CO:0  TB:0    Top▲

「『意識』を語る」スーザン・ブラックモア著(1)


山形浩生氏の解説はいつも身も蓋もない。しかし、『意識を語る』は山形氏の解説よりも本文の方が、さらに身も蓋もなく明快だ。意識の問題をどう設定すれば良いのかいろいろ提案している。もちろん答えがあるというのではなく、問うことで問題の所在を明らかにする。

まずコギトがある。自己意識があることは誰も反対しない。また、目の前にいる他人も意識を持っている。日常的な態度では、自我と他我はいつもペアになっている。

コギトの自己意識は明晰だ。しかし睡眠時の意識は明晰とはいえない。フロイトの無意識もある。思い出に浸る自己もある。

他人の意識は直接与えられるわけではない。人形振りという寄席芸がある。人間が人形のように動いて見せる芸だ。泥鰌掬いを踊る。意識のない人形に見える。もちろん芸がおわればもとの人間にになる。

反対のことも言える。ASIMOが一生懸命走っている姿には半分意識が生まれている。もちろんASIMOが人型ロボットだからだ。走行している車には意識がない。

動きや形が生命や意識を生む。物質が生物になるのは現象的には形と動きを通してだ。石ころか生物か判らない形をしたものを見つけたら蹴飛ばしてみる。転がっていけば石ころだし、あわてて逃げ出したら生き物だ。動かなくても左右対称ならば、生き物の死骸かもしれない。そして解剖したりして研究する。自己複製とかホメオスタシスなどの生命の定義がうまれる。定義をしたからと言って、われわれの生命の理解が変わるわけではない。

意識も同じことだ。「人形振り」は意識がないように見えるけれど、踊り終わってふつうに動いて喋り始めれば意識のある人間だ。意識があると思っても、解剖して内部が機械ならロボットだし、血や肉があれば人間だ。

こんなことが言えるのは、生物(動物)にしか意識が生じないという暗黙の前提があるからだ。もちろんこれは日常的な感覚では正しい。三人称の意識は動作や姿形や表情を通して与えられる。だから、人型ロボット(レプリカント)には意識が生まれる。もちろんあとでロボットだと判ることもある。それでも人間に見えることもあるし、ロボットに見えてしまうこともある。それでいいのだ。

三人称の意識は本来そういうものだ。意識現象と物理現象の相関をニューロンのレベルだろうが量子力学のレベルだろうが、研究したければ、勝手に研究すればいい。ただそれがうまくいっても、わかるのは相関関係だけだ。色と光の周波数との対応関係がわかっても、赤の赤さは分からない。意識のクオリアは意識に直接与えられるほかない。意識は常に「あるものについての意識」であるとともに、その「意識についての意識」である。

ところが「意識学者」は第一人称の意識の直接性を三人称の意識に持ち込もうとする。もともと物理的現象の知覚によって「間接的に」与えられる三人称の意識に直接性を求めるのには無理ある。あるいはむしろ無意味である。それにもかかわらず、かれらは二つの問いを発する。

ひとつは、「哲学者のゾンビ」の問題だ。ゾンビというのは、外から見えれば、言葉を話したり、涙を流して悲しんでいるのだが、言葉の意味や悲しみのクオリアをまったく意識も理解もしていない人間のことだ。もちろんこれは疑似問題で、わざわざゾンビにすることはなく、他者は私と同じように意識の直接性を持っているかと問えば良い。

もう一つは、「人工知能の意識」の問題。これは非ヒトガタ(人型)コンピューターのことで、通常はいくら高度な計算能力を持っていても、あるいはチェスが強くても、意識があるとは思わない。HAL型では意識を持つことはない。姿形(すがたかたち)動作が人でなければ、人工知能に「感情移入」できないからだ。ここで意識というのはたんなる計算能力ではない、意志の自由や創造性などのことだ。これは意識の直接性とは別の問題だ。ちなみに人型ロボットの鉄腕アトムには良心回路が組み込まれている。

一番目の問題と二番目の問題をあわせたものがレプリカントの問題だ。もし、人間と全く区別できないのなら、意識があるということだ。わざわざ区別する必要はない。映画『ブレードランナー』では、レプリカントか人間か判定する鑑定人がいるのだが、そうだとすれば、これもやっぱり最初に書いた生物か機械かの区別の問題になる。映画の展開はよく憶えていないが、たしか、鑑定士がレプリカントの疑惑のある女を愛するという話だったような気がする。それならどっちにしろ意識があるということだ。

「哲学者のゾンビ」や「人工知能の意識」の問題は、一人称と三人称の意識を区別して、一方を他方で説明しようとすることから生じた混乱なのだ。

「『意識』を語る」スーザン・ブラックモア著(2)へつづく
2009.04.18[Sat] Post 02:21  CO:0  TB:0    Top▲

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